ピックアップシリーズ

福島原発事故の語られぬ被害 病院で患者が避難できず置き去りに 45人が死亡

2023年07月03日17時32分 中川七海

双葉病院の前に放置されたまま=2012年3月18日、飛田晋秀撮影

東日本大震災の発生から、12年あまりが経ちました。被災地が少しずつ復興に向かう一方、未だ検証されていない問題があります。

2011年3月11日の東京電力福島第一原子力発電所の事故で、福島県大熊町にある「双葉病院」の入院患者と、系列の介護施設「ドーヴィル双葉」の入所者が少なくとも計45人亡くなりました。

両施設は原発から4.5キロの場所にあります。事故翌日の12日、首相官邸は原発から10キロ圏内に避難指示を出していました。本来なら、この段階で全員が救出されるはずでした。ところが、全ての患者と入所者の避難が終わったのは、5日後の3月16日でした。

過酷な環境の中、病院や避難のバスの中で絶命した人もいれば、衰弱して避難後間もなく死亡した人もいました。

この事件で、東電の旧経営陣3人は業務上過失致死傷罪に問われています。

そもそも東電が原発事故さえ起こさなければ、患者たちが置き去りにされるようなことはなかったからです。一審では東京地裁が無罪判決を出したが、裁判はまだ続いています。

しかし原発事故の状況下でも、45人の命は救えたのではないでしょうか。何か手ぬかりがあったはずです。

そのことが十分に検証されていないません。責任があいまいです。

遺族は、原発事故から10年経つ今も事件を調べ続けています。

Tansaが調べたのは、検察の調書です。双葉病院とドーヴィル双葉で救助にあたった関係者から検察が聴取した記録です。この調書は、東電への株主代表訴訟を審理している東京地裁商事部が、同刑事部から取り寄せた証拠です。

そこでは自衛官や警察官、病院関係者が、当時の状況をなまなましく供述していました。浮かび上がってきたのは、自衛隊幹部による致命的なミスなど数々の新事実でした。取材や政府事故調査委員会の調書、行政への情報公開請求の結果などの資料と照らし合わせて、事件で何があったかを報じます。

2011年3月11日、原発から5キロの病院に多くの寝たきり患者が取り残された。原発が水素爆発してもなお、救助の手は及ばない。すべての救出が完了したのは16日。45人が命を落とした。「戦時下」に匹敵する非常事態の中で何があったのか。検察の調書を調べていくと、自衛隊の致命的なミスをはじめ数々の新事実が明らかになる。本記事は2021年3月に配信したシリーズ「双葉病院置き去り事件」の抜粋です。事実関係は取材時点で確認が取れたものです。

事故発生後、「安全なところへ移動した」(11日午後2時46分~午後3時15分)

双葉病院とドーヴィル双葉は、福島第一原発の南西約4.5キロにあった。役場や商店街があった大熊町の中心街からは、1キロもない。(C)Tansa 

双葉病院は医療法人博文会の経営で、精神科と内科が診療科目だ。認知症の患者や合併症の疾患を抱えた高齢者が多く入院しており、常に点滴が必要な患者が20~30人いた。精神科には長期入院の患者もおり、原発事故当時は338人が入院していた。

大熊町で学習塾を開いていた木幡ますみ(66)は、33歳の時に双葉病院に看護助手として働いたことがある。精神科の入院患者の男性に「出身は東京だけど、家族と縁が切れて誰も迎えに来てくれない」と打ち明けられたのを思いだす。「帰るあてのない人たちがいて、寂しい雰囲気が双葉病院にはあったんだあ」。

ドーヴィル双葉も博文会の経営だ。双葉病院から500メートルほどのところにあった。要介護1~5までの高齢者が入所していて、認知症や寝たきりの人も多く生活していた。原発事故当時は98人が入所していた。

3月11日午後2時46分、大熊町は震度6強の地震に見舞われた。町の商店街で精肉店を営んでいた菅野正克(76)は、大きな揺れが収まってから、車で双葉病院に駆けつけた。当時99歳だった父の健蔵が半年前から肺炎で入院していたからだ。

病院には5分で着いた。玄関を入ってすぐにある受付の女性に父の様子を確認した。受付の女性は説明した。

「安全なところへ移動したので大丈夫ですよ」

受付の女性は、入院している健蔵の状態を確認して答えたわけではない。地震直後の混乱の中で、家族に心配させまいと咄嗟の対応として口にしただけなのだろう。しかし、菅野は女性の言葉に安心し、ほっとして自宅に引き揚げた。午後3時15分ごろのことだ。

それから1カ月間、父の消息が分からなくなるとは思わなかった。

ろうそくの明かりで点滴(11日午後3時15分~12日午前5時44分)

双葉病院の前に散乱するベッド=2012年3月18日、飛田晋秀撮影

受付の女性の言葉とは裏腹に、双葉病院とドーヴィル双葉はそこから危機的な状態に追い込まれていった。

地震が起きた時、患者と職員の悲鳴が上がった。恐怖で声も出ない患者は看護師の手を握って離さない。電気、水道、ガス、電話はすぐに止まった。電気は非常用電源で一時復旧したが、数時間で切れた。

配管が壊れて床は水浸し。長靴をはかなければ歩けない場所ができるほどだ。看護師たちは、水浸しで患者がいられなくなった部屋からの移動を誘導した。

最大の問題は停電だった。地震や津波の影響で、一定量の点滴を続けるための輸液ポンプと、痰の吸引器が使えなくなったからだ。寝たきりの患者にとってはいずれも必須だ。

院長の鈴木市郎はこの非常事態に、自ら患者たちのケアにあたった。鈴木は病院とドーヴィル双葉を経営する医療法人博文会の理事長でもある。懐中電灯やろうそくの明かりで患者の健康状態を確認しながら点滴の調整を行った。痰は注射器を使って吸引した。

原発事故から10年が経つ大熊町の旧市街地=2021年3月2日、渡辺周撮影

双葉病院とドーヴィル双葉で院長の鈴木らが患者のケアに追われていた頃、大熊町では「原発で何か起きたのでは」と不安を覚える地域住民たちがいた。

木幡ますみは、第一原発の方から作業員の制服を着た人たちが町役場近くのコンビニに続々と入って行くのを目の当たりにした。停電でレジが使えないため電卓で店員が計算するのを待てず、商品をどんどん持ち去る。塾の教え子だった作業員がいたので尋ねると、その作業員は叫んだ。

「先生、逃げろ! ここはもう駄目だ」

精肉店の菅野は、父の様子を見に行った双葉病院から自宅に戻った。その夜、第一原発で働く義理の息子がやってきて言った。

「原発が大変なことになっている。ベントしなきゃ」

ベントとは、原子炉の中の圧力を下げるために炉内の蒸気を外に逃すことだ。その際に放射性物質も周辺に漏出する。ただ、菅野には何のことかわからない。「ベントって何だ? 」と聞いた。義理の息子は教えてくれた。

「ベントするってことは、放射能が撒き散らされるってことだよ」

放射能が放出され、町が汚染されるかもしれない。大熊町民の不安は当たっていたのだ。

政府は3月11日夜から段階的に避難指示の範囲を拡大していく。

翌12日午前5時44分には双葉病院とドーヴィル双葉が含まれる10キロ圏内に対して避難を指示した。大熊町長の渡辺利綱には、首相補佐官の細野豪志から直接電話でその指示があった。

大熊町長、双葉病院を確認せず避難(12日午前5時44分~午後2時)

双葉病院院長の鈴木は、10キロ圏内からの避難指示を大熊町の防災無線で知った。

患者をどうすればいいだろう。

「寝たきりの患者は搬送すると衰弱する。かえって危険だ。だが病院内に留まった場合は、原発の状況が悪化して物資や食料も届けてくれない状態に陥るかもしれない」

鈴木は、患者と職員を全員避難させることにした。

そこへ、大熊町が住民を避難させるためのバスを用意しているという情報が入る。

救急車の方がいいのだが、非常事態だ。バスでの避難でも仕方がない。点滴を外したとしても、最低12時間は大丈夫だ。鈴木はすぐに病院の職員を町役場に行かせ、バスを双葉病院まで回すよう頼んでもらった。

しかし、バスはちっとも来ない。病院の職員が12日の午前中に何度も役場にかけ合いに行ったが来ない。役場の担当者は「住民たちの避難が終わってからバスを手配する。待っていてくれ」と病院職員たちに計画を伝えた。

正午、ようやく5台のバスが双葉病院に横付けされた。鈴木は各病棟のどこに患者がいるか見て回り、看護師や職員がバスに患者を乗せる作業を担った。

午後2時、バス5台は209人を乗せたところで満杯になった。搬送の患者の世話をするため、看護師と職員は全員がバスに乗り、双葉病院を出発した。

この時点で、双葉病院には患者129人、ドーヴィル双葉には入所者98人、計227人がまだ残っていた。院長の鈴木も、第二陣のバスが来るものと思ってケアを継続し、病院に残った。ドーヴィル双葉でも施設長らが残った。

ところが、それきりバスは来なかった。

町長の渡辺は、双葉病院からの避難は完了したと思い込んでいた。双葉病院とドーヴィル双葉の227人と鈴木院長らを残したまま、渡辺は避難先の田村市に向けて出発した。

旧大熊町役場=2021年3月2日、渡辺周撮影

町長の渡辺はなぜ、227人を残して避難したのか。

2012年5月15日、政府事故調からの聴取に対して次のように証言している。

「自衛隊のトラックに対して、双葉病院に向かってくれということを頼んでいる。自衛隊のトラックが双葉病院に向かったことは確認している。自衛隊側が病院職員と話をしてしかるべき措置をとってくれるだろうという認識だった」

しかしこの日、自衛隊のトラックは双葉病院で救助活動をしていない。渡辺は、自衛隊が双葉病院に到着して患者の救出を完了したかどうかは確認せずに「避難完了」としたことになる。

町長を引退し、今は大熊町で暮らす渡辺を取材した。

ーなぜ、双葉病院の避難が完了したことを確認しなかったのか。

「確かにきちっと確認しなかったっていうのは落ち度だな。でも(町民)1万人を現実的にね、朝から(避難指示の)連絡が来て、じゃあできる限り避難しましょうってのは、目が届かないことがあるんですよ。そんなにキチッとできるんだったら誰も苦労しないでしょ」

ー双葉病院の避難を自衛隊に頼んだ際に、自衛隊員に具体的な指示をしたのか。

「我々が自衛隊さんに、ここに行ってください、こうしてくださいなんていう形のことはなくて。自衛隊は自衛隊の組織系統があって、そういう命令系統で動いてますから。自衛隊から(双葉病院に)行ったけどどうでしたって連絡もなかったし」

ー双葉病院の状況について、田村市に避難している間も連絡は来なかったか。

「来なかったですよ。双葉病院のことはマスコミ報道で後から知りました」

渡辺は、自衛隊の命令系統は別であることを理由に具体的な指示は出さなかったと明かした。自衛隊には双葉病院の救出をお願いしたものの、自衛隊からの結果連絡もなかったという。

行政と自衛隊の間に連携はなかった。そのことが、災害下の双葉病院とドーヴィル双葉の救出にあたり、次々と問題を起こしていく。

防護服がない自衛隊、退却(12日午後2時~336分)

町長の渡辺は12日に田村市へ避難する前、自衛隊のトラックが双葉病院に向かったと語る。だが自衛隊は12日には双葉病院で救助活動をしていない。渡辺が見たという自衛隊のトラックはどこの部隊のものか、いまだに分からない。

12日午後3時、渡辺が救助を頼んだのとは別の自衛隊部隊が双葉病院に向かった。郡山にいた第12旅団の部隊だ。12旅団は、栃木、群馬、長野、新潟の4県を管轄する。大地震の後に郡山駐屯地へと移動し、そこで待機していた。

12旅団はなぜ双葉に向かったのか。

12日昼過ぎ、12旅団の司令部から出動命令が出たためだ。

「双葉地区に入って、取り残されている医療施設の入所者を避難させよ」

この命令が、町長の渡辺の依頼と関係したものかどうかは分かっていない。

郡山から双葉病院までは東へ約80キロある。被災の影響で道が悪く、一部では土砂崩れも発生している。大型バス3台も用意はしていたが、大型車は難しいと判断してマイクロバス6台のみで出動した。

国道288号の山道を走った。途中でラジオが入らなくなった。山を越えたあたりでようやく電波が入る。ラジオからニュースが飛び込んできた。

「午後3時36分、福島第一原発1号機が水素爆発」

隊長は焦った。部隊が放射線の線量が上がった際に必要な、防護用の装備を全く整えていなかったからだ。

この時のことを振り返り、隊長は検察官の聴取(2012年12月10日)に次のように答えている。

「部下の命を預かる隊長として、一旦、郡山駐屯地に帰還し、福島第一原発の状況を確認した上で、放射線防護用の装備を整えるべきだと判断しました」

自衛隊第12旅団の救援隊はそれ以上は進まずに引き返し、午後9時に郡山駐屯地に帰還した。

何度頼んでも・・・(12日午後3時36分〜13日朝)

双葉病院から500メートルのドーヴィル双葉=2021年3月2日、渡辺周撮影

その頃、院長の鈴木は困り果てていた。12日午後2時に患者と職員を乗せたバスが出た後、すぐに次のバスが来るものだとばかり思っていた。それがちっとも来ない。双葉病院には患者129人と鈴木、ドーヴィル双葉には入所者98人と施設長、事務課長の2人が残っている。

鈴木は車で5分の役場へ向かった。だが役場には誰もおらず、がらんとしていた。そのうちだれか戻るかもしれないと思って出直したが、結果は同じだった。

ドーヴィル双葉の施設長も、後続のバスが残された入所者を迎えに来ると思っていた。この日の午前中に大熊町の職員がドーヴィルを訪れた際、ドーヴィルの入所者数と寝たきりの人の数をその職員に直接伝えたからだ。

施設長は12日午後7時ごろ、事務課長と隣町の双葉町に出かけた。「せんだん」という介護施設があり、救助活動が実施されているかもしれないと考えたからだ。そうならば、ドーヴィルと双葉病院にも救助に来るよう頼むことができる。

予想は当たった。自衛隊が「せんだん」に来ており、入所者を避難させていた。

施設長は迷彩服の自衛官に、自分たちのところにも救援に来るよう頼んだ。依頼を受けた自衛官は言った。

「分かりました。後で向かいます」

3時間後の12日午後10時過ぎ、自衛隊が幌付きトラックでドーヴィルにやってきた。「せんだんに行ったのが功を奏した」。施設長はそう思った。

だがドーヴィルに来た幌付きトラックは、せんだんの救助に当たったトラックとは全く違うものだった。車高が高い上に、荷台の床の位置も施設長の頭より高い。

「この車両では、とても寝たきりの患者さんを乗せることはできない。自力歩行ができる患者でも、荷台に乗せることすら難しい。自衛隊は郡山まで運ぶと言っているが、どんなに早くても2時間はかかる。無理だ」

医師でもある施設長はそう判断して、このトラックを利用しての救助は断念した。

施設長はこの自衛官と、一緒にきていた警察官を連れて双葉病院に行った。救助は無理でも、双葉病院の状況を把握してもらおうと考えた。

病院の玄関前に着くと、院長の鈴木がやってきた。何か燃料になるものを確保しようと、鈴木は川内村の親戚の家から、ろうそくを調達してきた帰りだった。

鈴木は懇願する。

「今すぐ命を落とすような人ばかりです。早急に救助をお願いします」

だが、自衛官は答えた。

「今日は無理です。明日の朝に救助に来ます」

その救助を待つしかない。13日の朝にかけて、鈴木と施設長たちは、不眠不休で患者の点滴の調整や痰の吸引を続けた。

院内で3人が絶命(13日朝〜14日未明)

地震によって起伏した大熊町の道路=2014年3月27日、飛田晋秀撮影

そして13日朝。救助はこなかった。

助けを求めるため、鈴木は車で病院を出た。すると、川内村に向かうトンネルを抜けたところで、消防隊に出会った。ほっとした。鈴木は状況を説明し、頼んだ。

「双葉病院に患者が残されています。警察や自衛隊にこのことを伝えてもらえませんか」

鈴木は病院に戻って救助を待った。しかし、やはり助けは来ない。

13日午後、再び車で出かけた。

今度はパトカーに遭遇した。鈴木が車を降りようとしたら、タイベックスーツ姿の警察官は叫んだ。

「降りるな! 車に乗って窓を開けるな! 」

鈴木は、原発が深刻な事態になっていると感じた。車の窓を閉めたまま、その警察官に双葉病院に救助に来るよう伝えた。

それでも、誰も助けに来なかった。

自衛隊が再び動き始めたのは13日の夕方だ。第12旅団司令部から、郡山で待機中の部隊に命令が下ったのだ。

「現在、タイベックスーツを調達中である。タイベックスーツが届き次第、双葉病院の救助に向かえ」

しかし、タイベックスーツはなかなか届かない。部隊が郡山を出発したのは、14日午前0時。水素爆発の後、タイベックスーツがなくて先に進めず、12日午後9時ごろに郡山に戻って来てから27時間が経っていた。

双葉病院では14日未明までに、3人の患者が死亡した。

置き去りにされた患者や入所者は、ますます苛烈な状況に追い込まれていく。

45人の命が失われた原因は何だったのか。検証がなければ対策も打てない。検察の調書から、さらに詳しい当時の状況が判明した。

2011年3月11日、福島第一原発の事故で、原発から5キロの病院の入院患者と介護施設の入所者が取り残され、45人が亡くなった。全ての患者と入所者の避難が終わったのは、3月16日。病院や避難のバスの中で絶命した人もいれば、衰弱して避難後間もなく死亡した人もいた。原発事故の状況下でも、45人の命は救えたのではないか。Tansaは検察の調書を入手し、あの日起きていたことを検証していく。全ての記事はシリーズ「双葉病院置き去り事件」からお読みいただけます。事実関係は取材時点で確認が取れたものです。

シリーズ「双葉病院置き去り事件」をもっと読む:

「寝たきりは一部」のはずが(3)

オフサイトセンター崩壊(6)

「双葉病院のことは調べるな」(14)

関連コラム「葬られた原発報道」

「国が壊れても記者は黙る」国・日本の共犯者は誰だ(1)

福島からの叱咤 (2)

「圧倒的に池上コラム」(3)

朝日新聞「記者会見」のウソ(4)

ピックアップシリーズ一覧へ