この抗がん剤を使えば、乳がん患者の再発リスクが劇的に減るーー。
2017年6月1日、世界最高峰の医学誌にそんな論文が載りました。大手製薬会社の中外製薬が販売する抗がん剤について、日本と韓国の乳がんの専門医が5年かけて、900人の患者を対象に抗がん剤の効果を検証した結果をまとめた論文です。
しかし、この臨床試験に疑惑を投げかける医師がいました。当時32歳の乳腺外科医、尾崎章彦(34)。
尾崎は、中外製薬の資金が、表に出ない形でこの臨床試験に流れ込んでいるのではないかと自身の論文で指摘しました。つまり裏金です。
臨床試験に参加した大物医師らは「証拠不十分だ」と尾崎の指摘を一蹴しました。
ところがその後、「裏金」を示す証拠が尾崎の手元に届けられます。
医師と製薬会社の、乳がん患者をあざむくカラクリを暴きます。
「乳がんの再発リスクが30%減る」。中外製薬の抗がん剤の劇的な効果を、「日韓オールスター」の乳がん専門医たちが、世界最高峰の医学誌に発表した。だがその裏では、医師たちの研究に中外製薬の大金が流れ込んでいた。本記事は2019年12月〜2020年11月にかけて配信したシリーズ「隠された乳がんマネー」の抜粋です。事実関係は取材時点で確認がとれたものです。シリーズの最新記事はこちら。
乳腺外科医の尾崎章彦=2019年12月6日、福島県いわき市
2人の医師
2017年。尾崎は東京都江東区の公益財団法人がん研究会有明病院に勤務していた。
日本で乳がんでは最多の手術数を誇る病院。尾崎は福島県の病院に所属する医師だが、有明病院の乳腺センター長、大野真司の指導を受け、専門知識を増やすために有明病院で勤務していた。
センター長の大野は1958年生まれ。九州大学医学部を卒業し、九州がんセンターの臨床研究センター長などを歴任した。日本の乳がん分野の重鎮だ。ドキュメンタリー番組「情熱大陸」で「国内屈指の乳がん専門医」として特集されたこともある。
2017年の9月26日午後2時。尾崎は有明病院の幹部クラスの部屋が集まるフロアに白衣姿で向かっていた。その一つに大野の部屋があった。尾崎は大野に呼び出されていた。
大野は「はい、どうぞ」と尾崎を自室に迎え入れる。切り出した内容は、論文に関することだった。
「あなたが書いた論文のことで、うちのドクターたちからもいろいろ声が上がってるものだから」
「ちょっとあなたと話しとかないかんやろなと思ってね」
尾崎は「やっぱりな」と思った。呼び出される10日前、尾崎が今回の論文を投稿した学術誌『サイエンス・アンド・エンジニアリング・エシックス』がリリースされていた。尾崎はそこで、大野らが書いた論文を批判していた。
「すごい結果」の裏側で
尾崎はいったい何を批判したのか。
上司の大野が参加したのは乳がんの臨床試験で、中外製薬の抗がん剤「ゼローダ」の効果を試す試験だった。データ解析を含めるとその臨床試験は2007年に始まり、2016年に終了した。2017年6月に論文として発表された。
臨床試験の結果は、乳がんの再発リスクが30%減り、5年後までの死亡リスクが41%下がるというものだった。中外製薬は並外れた効果を持つ治療薬を世に送り出したことになる。
その検証論文は、世界最高峰の医学ジャーナル『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディスン』に掲載された。
尾崎もその検証論文を詳細に読んで「すごい結果だ」と思った。しかしドイツやアメリカで同じ「ゼローダ」を使った臨床試験が行われたが、良い結果は出ていない。
論文に記載されている「資金提供元」を見て、不審に思った。医学論文では、研究結果が利害関係で歪められないよう、資金提供元を明記することが求められている。NPO法人先端医療研究支援機構(ACRO)という組織から資金提供があったと記載されていた。
尾崎は思った。
ーーそのNPO法人はどこから資金を得ているのか。この臨床試験の結果は、抗がん剤「ゼローダ」を販売する中外製薬に莫大な利益をもたらす可能性がある。論文に中外製薬の資金については一切報告されてないが、「もしや……」。ーー
尾崎は中外製薬のホームページから、同社の寄付先を調べた。すると、2012年から2015年に、2億3,600万円の寄付があった。
尾崎は「これは迂回(うかい)資金ではないのか」と直感した。
中外製薬がスポンサーとなって、中外製薬の抗がん剤を実験していたとすれば、それはヒモ付きの臨床試験だ。結果が載った『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディスン』は世界最高峰の医学誌であり、影響力も大きい。上司の大野をはじめ、乳がんの分野の有力医師たちを敵に回すことになるが、こう思って学術誌に批判の論文を投稿することにした。
「清水の舞台から飛び降りよう」
「聴取」を録音した上司
研究室に尾崎を呼んだ大野は「ちょっとあなたと話しとかないかんやろなと思ってね」といった。
「いった、いわないということになったらマズイんで、これを録音しておいて、どちらも将来聞くことができるようにしとこうと思って」
録音機のスイッチを押した。
上司の大野による尾崎の聴取が始まった。
「問題かね?」
「(あの臨床試験は)問題かね?」
大野は、尾崎が問題視しているカネの流れについて見解を尋ねた。
尾崎は正直に自分の考えを述べた。
「(臨床試験の)結果はいい意味でショッキングでした。先生方がやってきた仕事はすごかったし、僕も敬意を払っていた」
「なんでこういうところをちゃんと書いてないのかな、という率直な気持ちがあった。事実と違うんじゃないかなと、正直なところ」
臨床試験の資金源であるNPO法人先端医療研究支援機構(ACRO)には、中外製薬の寄付金が2億円も入っていた。しかしそのことは、臨床試験の結果を載せた「ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディスン」には書かれていなかった。
尾崎はそのことを「事実と違うんじゃないか」といったのだ。
「あなたの将来を心配」
大野はいう。
「わかりにくいなっていうのは確かにあるんだよね、中外のこと書いてないとか」
しかし大野は尾崎の行動を問題視した。
「なんで(雑誌に批判論文を)書く前に相談してくれなかったのか」
尾崎は「センシティブな問題だし、ちゃんと聞いてもらえないんじゃないかという気持ちがあった」と答えた。
「同じ職で同じ釜の飯食ってるわけじゃん」
レコーダの大野の声は、時になだめ、時にボルテージが上がった。そして諭(さと)すようにいった。
「京セラの稲盛さんはいつもいってる言葉なんだけどね、行動力と熱意と考え方は掛け算で、考え方はプラス方向かマイナス方向によって全然違う、と。あなたは行動力はある、患者さんのためにという熱意もある。考え方のところで、書くこと以外に方法論はなかったのか」
そして、警告した。
「これに対する対応を当然しなくちゃいけない。そうしないとあの研究自体、批判がありますというのを認めたことになっちゃうからね」
「そうすると、僕が心配しているのは、ほかの人も心配しているのは、あなたの将来がどうなんだろうということ」
計3時間15分の聴取
大野による尾崎への聴取は、その2017年9月26日の午後2時から1時間が最初だった。
1回で終わると思ったら、再度同じ日の夜9時に呼び出された。
面談で大野は「事の重大性が怖いところがあってさ」と切り出し、さらに1時間45分聴取した。
3回目はないだろうと思ったら、10月4日にも午後1時半に呼び出され30分。大野自身ががん研有明病院の幹部に何度も呼ばれ大問題に発展していると、また呼び出した理由を告げられた。
聴取は計3回、3時間15分にわたった。
その中で大野は、臨床試験に助成したNPO法人先端医療研究支援機構(ACRO)に中外製薬が2億円寄付していたことは「全く知らなかった」と語った。
レコーダーに残る大野の主張を整理するとこうなる。
ーーNPO法人に中外製薬から寄付が入っていたとして、NPO法人の「どんぶり」には複数の製薬各社からも寄付が入っている。中外製薬の寄付が、自分たちが実施した臨床試験に使われているかはわからないはずだ。ーー
3回目の聴取で大野は尾崎にこういった。
「これがヒモ付きですって、どこかに証拠があるの?」
「(尾崎の論文は)誹謗中傷だよ」
しかし、尾崎はこのあと「ヒモ付きの証拠」を入手する。
患者にねだられ子供の写真を見せる尾崎章彦=2019年12月6日、福島県いわき市常磐上湯長谷町上ノ台
1通のメール
尾崎が大野センター長から聴取を受けて1年後。2018年秋、尾崎医師にメールが届いた。ACROの関係者からだった。
その関係者は、尾崎医師が中外製薬と臨床試験との資金の不透明さを批判していることを知り、メールしたという。
メールにはこう書かれていた。
「そのNPO法人は、様々な製薬会社から受け取った寄付を医師に流す、いわばロンダリング法人です」
ロンダリングとは「洗浄する」という意味だ。資金の出所を分からなくするため、資金を直接渡さずに別の組織を経由することを「マネーロンダリング」という。
「やはり自分が考えていた通りのカラクリがあるのではないか?」。尾崎はそう直感した。
ちょうどその時期、尾崎は医療ガバナンス研究所の一員として、Tansa(当時ワセダクロニクル)と製薬マネーデータベースの制作に打ち込んでいた。尾崎はTansaに先端医療研究支援機構の関係者からのメールの話を持ち込んだ。
「製薬マネーデータベースで把握できる『表の資金』だけではなく、『裏の資金』も究明する必要がある」
Tansaは、リサーチと取材を始めることを決めた。
中外製薬本社の近くには医薬の祖神をまつった薬祖神社がある。この界隈はかつて「薬のまち」としてにぎわった=2019年12月9日午前11時、東京都中央区日本橋室町2丁目
カフェに持ってきた経理資料
情報源からのメールが送られてきてから3週間後、Tansaは尾崎医師といっしょに、そのNPO法人の関係者と会うことにした。場所は東京郊外のカフェ。
その関係者は一番奥の席に座っていた。ここでは、Xと呼ぶことにする。
Xはいった。
「先端医療研究支援機構に恨みがあるというわけではありません。患者さんに迷惑をかけるかもしれない不正を見過ごせないだけです」
そして、ある資料を差し出した。
中外製薬の資金が、先端医療研究支援機構を通じて、ヒモ付きで大野らの臨床試験に流れ込んだことを示す経理資料だった。
すごい。
私たちは顔を見合わせた。
先端医療研究支援機構(ACRO)の経理資料=2019年12月10日、東京都内 (写真は一部加工しています)
600枚の内部資料
Xが差し出したUSBメモリには、フォルダごとに整理されたACROの資料が詰まっていた。
様々な製薬会社からの寄附金の受け入れ状況、コンビニエンスストアで買った打ち合わせ用の飲料代……。
その数、600枚超。
私たちは単刀直入に聞いた。
「まずは、中外製薬が乳がんの抗がん剤を試す臨床試験にヒモ付けて資金を出したことが、最も分かりやすい証拠はどれか教えてほしい」
Xは、その中の1枚のファイルを開くよう指示した。
ファイルを開けた。
資料にはこんなタイトルが書かれていた。
- 〈 平成18年度・19年度・20年度 JBCRG-04 収支明細表 〉
その代表は聴取した乳腺センター長
資料のタイトルにある「JBCRG」とは、「Japan Breast Cancer Research Group」の略だ。「日本乳がん研究グループ」とでも訳そう。乳がん患者を対象に臨床研究をする医師のグループで、2002年に発足した。
その代表を2012年から務めているのが、がん研究会有明病院乳腺センター長の大野真司だ。そのほかのメンバーも、日本の乳がん分野で著名な医師たちが名を連ねる。
この研究グループが、中外製薬の抗がん剤「ゼローダ」の効果を試す臨床試験を実施した。そして、「乳がん患者の再発リスクが劇的に減る」という結果を海外の一流医学ジャーナルに論文として発表した。世界のほかのグループから「大した効果はみられない」という論文も出ていた後だった。
JBCRG04の「04」とは?
Xは「この団体が実施した臨床試験に付けられた番号のことで、『04』は、乳がんの抗がん剤ゼローダを試した臨床試験です」といった。そのことは、JBCRGのウェブページにも記載されている。
この資料が、問題の臨床試験の経理資料だということはわかった。
問題の臨床試験をめぐって、どんなカネが動いたのか。
「入金先」は中外製薬
「収支明細表」の一覧の中には以下のような項目が記載されている。
まず、「入金先」をみてほしい。
そこには、「中外製薬(株)」と記載されている。つまり、こういうことになる。
- この「収支明細表」は問題の臨床試験の経理資料である
- その臨床試験のために、中外製薬は「寄付」という形でACROに入金した
- 資金は2006年9月から2008年9月にかけて計1億3,400万円だった
Xは「中外製薬の資金は、自社の抗がん剤を試す臨床試験にヒモ付いていた、ということです」と説明した。臨床試験が始まったのは2007年2月だ。この経理資料は、試験が始まる半年前から試験初期にかけ、中外製薬からの資金が流れ込んでいることを示している。
尾崎は「臨床試験が始まる時から中外製薬のヒモ付きだったんですね」といった。
私たちはその後もXと面会を重ね、中外製薬の資金が臨床試験とヒモ付いている証拠をACROの内部資料から特定していった。
ACROの銀行通帳のコピー。「チユウガイセイヤク」の入金は臨床試験「JBCRG04 」に使うことを示す手書きのメモがある(写真の一部を加工しています)
通帳にあったメモ書き
私たちがXと2度目に会ったのは、初めて会ってから2週間後だ。場所は前回と同じ東京都郊外のカフェにした。
私たちはパソコンに頭を寄せた。一つ一つのファイルを開けては閉じていく。膨大な量のデータだ。X自身でさえ初めて見るファイルがあった。
私たちが「これ、何?」と尋ねたのは、銀行口座の通帳のコピーだった。
入金記録は、2006年から2008年の臨床試験の「収支明細書」の記録とぴったり一致した。
入金先には「チユウガイセイヤク」とある。
そしてその通帳の入金欄のところには、手書きのメモがあった。
- JBCRG04へ
「JBCRG」は、医薬品の臨床試験を担当する医師グループの名前だ。そのあとの「04」は、中外製薬の抗がん剤「ゼローダ」の臨床試験に付けられた番号である。
メモは「このカネが、ゼローダの臨床試験のために使われるカネです」という意味以外にありえない。そうXは説明した。
パソコンから顔を上げた尾崎が「これは誰が書いたのでしょう」と聞く。
Xが答えた。
「ACROの経理担当者が、出納帳を作る上で、ヒモ付きであることを忘れないようメモったのでしょう」
中外製薬は、ACROを経由させることで、資金の出どころが中外製薬だとわからないようにしていた。しかし、その資金がほかの目的で使われてしまっては困る。それでACROの担当者がメモ書きをつけたのだ。
出納帳簿
後日、さらに私たちは中外製薬の入金がヒモ付きであることの証拠を経理資料の中から見つけた。
「普通預金出納帳」。帳簿だ。
ACROが銀行口座のカネの出し入れをエクセルシートに記録していた。入金先には製薬企業の名前がずらりと並んでいた。
中外製薬が入金した資金の用途を示す「分野」の欄には、やはり、「JBCRG04」の文字があった。入金日と金額も、収支明細表、銀行口座の通帳と一致している。
これで三つの経理資料から、中外製薬の資金が臨床試験にヒモ付いていることが裏付けられた。
中外製薬は私たちの問い合わせに対し「紐付き資金」ではないと反論する。
「ACROからの寄付申込に対して、ACRO全体の活動に賛同し寄付を行いました」
つまり、自社の抗がん剤ゼローダの臨床試験に紐付けてACROに資金を投入したわけではない、ACROの様々な活動全体に対して寄付をした、ということだ。
ACROとはいったいどんな組織なのか。
私たちは、ACROを訪ねてみることにした。
ピンクの洋館
登記簿に記載されたACROの住所を訪ねるとピンク色をした建物があった=2019年12月9日、埼玉県久喜市内
ACROの正式名称は、「特定非営利活動法人先端医療研究支援機構」という。登記簿では、事務所の住所が埼玉県久喜市になっている。
東武伊勢崎線の久喜駅から徒歩5分。住宅街の中にその建物はあった。
ピンク色の2階建て洋館があった。事務所というよりは一般の住宅だ。
「ACRO」の表札もない。中に人がいる気配もない。
近所の住民たちに「これはACROの事務所ですか」と聞いてみた。
「さあ。この辺は住宅街ですからねえ」
「この家に人が出入りするのを見たことないですよ」
耳寄りな情報は得られない。
あきらめて駅へ引き返そうとした時、配達員が隣の家の前にいた。配達員は答えた。
「そうです、ACROの事務所です。この夏までは人がいたんですけどね。今は建物を管理する人が週に1回来るくらいですよ」
このピンク色の洋館が、ACROの事務所だったことはわかった。
しかし、今はどうなっているのか?
そもそもこんな無人の建物が、中外製薬が「活動に賛同して」億単位の資金を寄付していたACROなのだろうか?
そしてYは認めた
私たちは2019年12月、ACROの発足当初からの事情を知る関係者Yと会うことができた。
Yにはまず、中外製薬のACROへの寄付金が臨床試験に紐付いていたことを示すACROの経理資料を見せた。その後、それに基づいてこう質問した。
「中外はACROの活動全体に賛同して寄付したと主張しているが、実際は臨床試験に紐づいていたのではないか」
Yは認めた。
「ACROに入る製薬会社からの寄付金は、みんな紐が付いてるんだよ。紐が付かないなんて、ないよ」
製薬会社と医師は「なーなー、つーつー」
Yは、ACROができる2000年代初頭まで、製薬会社と医師は「なーなー、つーつー」の関係だったといった。ときには医師に直接400万円を渡す製薬会社の営業担当社員もいたという。
それに対し、それでは医師主導の臨床試験が信頼されなくなるという批判が起きる。「医師主導」ではなく、製薬会社からのカネで「お抱え」の臨床試験になってしまうからだ。その批判をかわすため、中間に「隠れみの」の法人をつくるという仕組みが出来上がった。
その後、隠れみのNPOや財団が次々にできた。
「先生たちは製薬会社からのお金の受け皿がほしいんですよ。政治家と同じで、資金がないと何もできないから」
「しかし政府は臨床試験には十分な資金を出さない。こんなことでは、日本の臨床試験は欧米に差をつけられるばかりだ。製薬会社はACROのような団体にお金を入れざるを得ない。糖尿病関連の財団とか、もっと大きな額が入ってるところがいろいろありますよ」
医師は知らなかったのか?「それはないでしょうね」
「問題は」とYは続けた。
「医師たちが、臨床試験の結果を掲載した論文に、中外製薬の資金が入っていることを申告しなかったことですよ。それをしておけば、問題ないじゃないですか。しないからややこしい話になる」
しかし、中外製薬のカネの流れを指摘した乳腺外科医の尾崎章彦(34)は、臨床試験に参加した医師で、上司でもある大野真司にこういわれている。「中外の寄付金は紐づいていない。誹謗中傷だ」と。
臨床試験に参加した専門医たちは、中外製薬の紐付きだったことを知らなかったということはないだろうか。
そう尋ねると、Yはにやりとした。
「それは……それはないでしょうね」
私たちは、臨床試験に参加した乳がん専門医の重鎮たちを取材することにした。
「誹謗中傷」となじった大野医師は?
私たちは2019年11月、がん研究会有明病院の大野医師に取材を申し込んだ。大野は尾崎が論文で中外製薬のカネと臨床試験との不透明な関係を指摘したとき、「事実でなかったら誹謗中傷だ」と詰め寄った。
がん研有明病院の広報課から返事があった。
「(大野によると)臨床試験の窓口は京都大学の戸井医師ということでした。申し訳ございませんが、この件につきましては戸井医師の方へご確認いただければと思います」
大野は逃げた。
「多忙」を理由に取材を拒否
大野がいう「戸井医師」とは、京都大学医学部付属病院乳腺外科長で教授の戸井雅和のことだ。中外製薬の抗がん剤ゼローダの臨床試験を実施した医師グループを束ねた。国際医学雑誌「ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディスン」に掲載した論文のトップ、責任著者でもある。
尾崎も、戸井の名前は知っていた。「能力が高くて潔癖な先生」と思っていた。
2019年11月29日、私たちは戸井に「12月4日までに取材を受けてほしい」とメールで申し込んだ。場所は京都でもどこでも都合に合わせる、と伝えた。
その数日後の12月2日、京大病院の総務課企画・広報係からメールで返事がきた。
「(戸井は)多忙につき、取材等はお断りさせていただくとのことです」
確かに年末は忙しいのかもしれない。私たちもそう思った。なので、年が明けて2020年1月7日、再び戸井のメールアドレスに連絡を送った。
3週間経った。返事がなかった。
私たちは戸井に話を聞くため、2020年1月27日、京大病院に向かった。
戸井雅和が勤務する京都大学医学部付属病院=2020年1月27日午後5時11分、京都市左京区聖護院川原町
「アメリカとの差を埋めたい」エリート医
患者さんの診療に迷惑をかけるわけにはいかないので、私たちは京大病院で診療がすべて終わるまで戸井を待った。
戸井とはどんな人物なのだろうか。
2017年10月の医療ウェブメディア「メディカルノート」を要約すると、こんな医師だ。
── 病弱な幼少期を過ごし「自分は医療のおかげで生きている」と思うようになった。小学校の卒業文集には「将来は医者になる」と書いた。
1982年に広島大学医学部を卒業し、腫瘍外科の道に進む。当時は「あと10年で、人間ががんを克服する」と言われており、興味を持った。
1987年からは九州がんセンターに勤めた。乳がんの著名な医師がそろっていた。「乳がんのプロフェッショナルになりたい」。そう決心した。乳がんについての本や医学雑誌を片っ端から読み漁った。
1990年からオックスフォード大に、2000年からはハーバード大に留学した。オックスフォード大では、研究テーマの設定から開始までのスムーズさに驚いた。ハーバード大では理想的な臨床研究を日本で行うのは、まだ遠い出来事のように思えた。このギャップを埋めたいと考えた──
そんな真摯な医師だったら、臨床試験に中外製薬のカネが紐付いていたことを論文に記載しなかった理由を、きちんと答えてくれるだろうと期待した。
戸井の診療が終わるまで、3時間待った。
「増田先生に聞けばいい」
待合スペースに出てきたところで、声をかけた。
戸井は一瞬、立ち止まった。
「ワセダクロニクル(当時のTansa)です、臨床試験の件で来ました」
戸井は私たちに背を向けで歩き出した。私たちは追いすがって質問した。
── 中外製薬のカネが臨床試験に紐付いていたことを始めから知っていたのですか?
──「 ニューイングランドジャーナル・オブ・メディスン」誌に、臨床試験には中外製薬からのカネが入っていたことを申告し直す必要があるのではないでしょうか?
すると、こんな答えが返ってきた。
「コメントするつもりはありません」
戸井は早歩きになったが、突然立ち止まった。私たちがICレコーダーで録音していることに気が付いたのだ。
「なんで録音なんかするんだ。勝手に録音するのはやめてもらえませんか」
── これは取材です。大野先生から、戸井先生に聞いてくれといわれたのです。
「増田先生に聞いてください」。戸井はそういった。
「増田先生」とは、国立病院機構大阪医療センター乳腺外科長の増田慎三のことだ。同じ臨床試験に参加し、論文の共著者でもある。
しかし論文の責任者は戸井だ。にもかかわらず戸井は質問に答えず、増田に押し付けた。さらに後日、Tansaに対し京大から抗議のメールが届いた。
【動画】戸井雅和・京大教授インタビュー
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