編集長コラム

「私」を出す(68)

2023年07月15日18時54分 渡辺周

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辻麻梨子が7月13日、シリーズ「誰が私を拡散したのか」の一環で13本目の記事を出した。

見出しは、「『撮影罪』が今日施行 同意のない性的画像の撮影・拡散は禁止に こんな被害に遭っていませんか?」。性的な画像を同意もなしに売買の対象として拡散され、困り果てている被害者たちにとっては朗報だ。

辻から事務所で「撮影罪というのができたんです、明日記事を出します」と伝えられたのは、前日の7月12日。辻の言葉は熱を帯びていた。これまで取材した相手を思い浮かべているようだった。

辻には「この問題を追いかけている『私』を主語にした記述を入れよう」とアドバイスした。辻の熱量を生かすには、無味乾燥な「連絡」ではなく、辻の心持ちが伝わる方がいい。

辻が書き上げた原稿は、「私」から「あなた」へのメッセージになっていた。例えば撮影罪の中身を説明する際、次のように書いている。

「『自分が見るためだけに撮影する』『これは性的な行為ではないから大丈夫』などと、あなたを騙した状態での撮影も同様に禁止されます」

撮影罪の施行を手放しに喜ぶのではなく、サイトの運営企業に対して「私」が牽制することも忘れなかった。辻の頭の中には内偵中の企業の案件があり、法施行だけで何とかなるわけではないことを知っているからだ。

「他方で、同意のない性的画像を価値のあるものとして広めるインターネットの利用者と、それを支える仕組みが変わらなければ、根本的な犯罪の抑止にはならないと私は考えます。SNSや動画視聴・投稿サイトなどを運営する企業は、自社の管理下で犯罪行為が起きないように予防・対応措置をとるべきです」

「神の目」は持てない

あらゆる取材は、ジャーナリスト個人の感情が支える。探査報道では「これはひどい!」という怒りが原動力になることが多い。主観からは逃れられない。取材した中から何を選んで記事を構成していくのかも、個々の判断が入っている。あらゆる主観を排して、森羅万象を俯瞰する「神の目」を持つことはできない。

それならば、思い切って「私」を前面に出して記事を書く方が読者に対して誠実だと思う。「あり方が問われる」とか「成り行きが注目される」とか、主語がないまま受け身で書いている記事を見かけるが、無責任だ。一人のジャーナリストである「私」が、「あり方を問う」のであり、「成り行きを注目する」のではないのか。

もちろん、フェアであることは大切だ。そのためには、三つのことを守る必要がある。

一、批判相手に反論の機会を設けること

一、「私」が判断する上で、力の限り多くの事実を収集すること

一、共感する相手でも、その当事者にはならず、取材者の立場を堅持すること

この三つを担保すれば、どんどん「私」を出した方が、読者の心に届く記事になる。

「廃業を」とまで書くには

記事で「私」を打ち出すのは、世界的な傾向でもある。

例えば、元ニューヨーク・タイムズ東京支局長のマーティン・ファクラーさんが、リーマンショックの後に経営難に陥ったタイムズがV字回復した理由を教えてくれたことがある。その一つが、「私」を積極的に記事に出すようになったことだった。

「記者の姿が見える記事を読者は求めている。以前は記事中に『私』が出てくるのは御法度だったが、今は『私』が不在の記事は信用もされない」

「私」の不在という点で、「保身の代償」で報じた共同通信は象徴的だった。

共同通信の幹部たちは、長崎新聞を著書で批判した石川陽一さんを責めた。だが彼らもかつては記者だった。一体どんな仕事をしてきたのか。中川七海は水谷亨社長以下、登場する幹部たちが書いた記事をデータベースで探したが、署名記事が一向にみつからなかった。

記事に署名がないのは、自身の紙面を持たない通信社の特徴かもしれない。だが審査する委員の名前すら、共同通信は明らかにしなかった。「私」を放棄し、組織の匿名性に逃げ込んだ。高校生のいじめ自殺をめぐる報道機関の態度として、姑息としか言いようがない。

中川は、「私」を出して共同通信編の最終回「メディアが加わった『いじめのサイクル』」を締めくくった。

「今回の共同通信の背信行為が、ジャーナリズムに対する日本社会の信頼を失墜させたと私は考える。ジャーナリズム本来の使命を果たさないのであれば、共同通信は報道機関として廃業するべきだ」

ここまで書くには、半年間にわたる徹底取材があった。「私」を出すことは、自分の言葉に責任を持つための努力を重ねることでもある。

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